明治後期・大正前期
▶し尿処理
大正中ごろまでし尿はもっとも重要な商品として扱われ、市の処理義務の範囲外とされていました。
この時代のし尿の流れは、くみ取り収集されたし尿を陸路または水路によって郊外に運び、農家がこれを肥料として使用するというものでした。
契約は地主または差配人と業者との間で交され、通常は一ヵ年契約で、代金の算定方法は、戸数・居住人数で割出す方法とくみ取り量を基準とする2種類の方法がありました。
くみ取り業者は大きく分けて営業者と自用者があり、営業者とはくみ取り専門の業者で、多くはみずからくみ取ったし尿を販売していたが、なかには請負業者や仲買業・中立業などもありました。またし尿を無償でくみ取る業者もあり、郊外から野菜などを売りに来た帰りに、し尿をくみ取って持ち帰り肥料として使用していました。自用者は農家が自らくみ取り業を行うもので、営業者に水などの混じった品質の悪いし尿を高値で売りつけられるため、それに対抗した策であります。
こうしたくみ取り業者を統制するため、警視庁は1905年、東京市内で組合を組織させました。
営業者は三つの組合を組織し、自用者の参加は自由としました。
くみ取りの間隔は土地住居の事情によって異なりますが、月に3~6回の割合でした。
運搬には船や馬車・手車・天秤棒などが多く用いられていましたが、東武鉄道では業者と特約して専門の駅を設け、そこから埼玉方面へ運搬していました。
▶河川の清掃
大正初期の東京市内には、大小あわせて59の河川がありました。
当時の河川は一般人がゴミを投棄するほか清掃作業員のなかにも、収集したゴミを夜間捨てにくる者がおり、そのため河川は汚染され最悪の環境でした。東京市ではやむを得ず、大正3年に従業員41人・大伝馬船22隻・小伝馬船14隻で清掃を開始しました。
下水の汚染もまた、深刻な問題でした。大正初期の市内の下水は現在のような地下埋設の下水管ではなく地上の側溝のため、ゴミが投げ入れられる事もありました。
汚泥は市内7ヶ所の汚泥仮置場に集積し、そこから船積みして越中島地先の埋立てに利用していました。
▶清掃作業員の生活
手取り賃金は1ヶ月約12円で、その頃の平均月収は40円16銭、清掃作業員の収入はかなり低いものでした。3人家族の場合、1ヶ月の支出は食費、家賃等で約39円になり、清掃員一人の収入では生活が成り立たなく、家族の協力が必要でした。
大正11年、東京市会において清掃作業員が各戸から私的に金銭を集めていることが問題になり、賃金の低さが要因となっていました。
▶各自治体のゴミ処理方法
「大日本私立衛生会雑誌」は1900年末、52市26町についてゴミ処理の実態を調査。
ゴミ焼却場を所有している・・・・・13市5町(※東京市・大阪市は非所有)で、日本で初めてゴミ焼却場が建設されたのは1897年福井県敦賀市の影響もあり北陸地方には多く、金沢市には4つもありました。
また佐賀県内では、佐賀市はゴミを焼却せず埋却する一方、有田町・伊万里町・小城町・武雄町の4町は焼却場を所有、なかでも有田町は5つを所有し、全国一でした。
ゴミ焼却場のない自治体のほとんどは東京市同様、肥料として処理し、宇都宮や静岡では焼却後、肥料として売却していました。
大阪市では肥料への転用の他、海中投入を行っていました。海中投入は埋立てではなく、ゴミを沖合いに運び海に捨てるだけのものでした。しかしこの方法だとゴミが浮遊して海岸に漂着し、大阪港の交通が妨げられるだけでなく隣接の堺市や神戸市へも影響を与え再三にわたって抗議を受けることになりました。このことは逆に、大阪市がゴミ焼却に取組む契機となり、1903年に福崎、1907年に長柄に焼却場が建設されました。