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大正後期

▶し尿処理

第一次世界大戦(1914~1918年)は日本に好景気をもたらしました。
この大戦景気によって転換を迫られたのが、し尿処理でした。し尿は従来肥料として商品価値をもっていましが、大戦景気によって他の仕事の労賃が上がった結果、労働力の確保が困難となり、処理業者の経営を圧迫するという状態に至りました。また、東京市近接地域の宅地化が広がり農地が削減され、し尿が使われる地域が遠方になったことで運搬にも手間がかかるようになりました。さらに、技術の進歩にともなって人工肥料の品質が向上し、価格も下がったことで農家がし尿よりも人工肥料を好んで使用する様になりました。これは、し尿を肥料とした農作物とくに野菜類を食すと消化器系伝染病や寄生虫に感染することが一般にも知られるようになりし尿が嫌がられるようになったためでした。

▶し尿の処理法

くみ取り以外の処理として水槽便所(浄化装置を有する便所)と水洗便所(下水道直結便所)がありました。
処理量は水槽便所が約6%、設備が高額で一般家庭への普及は難しかったようです。水洗便所は約4%、理想的処理法とされていましたが下水の設備状況が悪く、設備費も比較的割高だったため、なかなか普及しませんでした。また宅地内に畑を有する家では、これに施肥する場合もありましたが、わずか0.07%でした。

▶ゴミ処理への関心の高まりと臨時汚物処分調査会

大正期は、ゴミ問題への関心が高まり初めた時期といえます。「大日本私立衛生会雑誌」(大正12年に「公衆衛生」と改題)においてはゴミ問題に関する論評が増え始め、大正7年から昭和5年までに10件の論説が掲載されました。いずれもゴミ・し尿処理の実態を詳述したもので処理停滞を非難し、その円滑化を主張したものでした。そうした中、大正10年、東京市に「臨時汚物処分調査会」を設置。これは大正9年、市長に就任した後藤新平氏の方針によるもので、後藤氏は内務省衛生局に15年間勤務するなど、衛生行政に通じた人物でした。
調査会のメンバーは委員長の北里柴三郎氏以下、横手千代之助氏、北島多一氏、麻生慶次郎氏、田中芳雄氏、竹村勘悟氏、岸一太氏、高野六郎氏の7人の委員で構成され、東京市からは助役3人と幹事として衛生課長ら3人が参加しました。
当時のマスコミは調査会に大きな期待を寄せました。
「東京朝日新聞」(現「朝日新聞」)…「新知識揃ひで独特の汚物処分。全国に範を示すべく市が根本解決。」と見出しをつけ、「幸ひ東京には各方面の権威者が在ることとて、それらの人の知恵を拝借すれば決して後に悔いを残すことはあるまい」(澄川義三郎)、「東京で根本的の良策を実現すれば、日本の都市では何処でもそれを模範とする事が出来て非常に良い結果と為るであろう」(北島多一)など委員のコメント紹介し、期待を示しました。

▶関東大震災

大正12年の関東大震災で、東京市のゴミ処理関連施設も大きな被害を受けました。

  震災前保有数 被害数 被害数 備 考
塵芥関係 手 車 約1,200 約900 約300 焼失したものの他、被災者の荷物運搬用にも使用された
自動車 15 2 13  
曳 船 6 0 6  
伝馬船 146 41 105  
し尿関係 手 車 278 148 130  
自動車 30 6 24  
樽・桶 約11,000 約8,400 約2,600  
公衆便所 262 210 52 残存は山の手方面のみ

参考資料:「東京市震災衛生救療誌」

手車やし尿運搬用の樽・桶といった収集作業に必要な用具に大きな被害が出ています。
また震災直後、市は避難民の救護や遺体の処置にかかりきりとなり震災後約1週間ゴミ・し尿処理は停止状態となりました。1週間も処理が止まればゴミ・し尿は市街にあふれ、伝染病が発生し、さらに被害が拡大することにもなりかねなく、早急に対策をたてねばなりませんでした。

▶ゴミの緊急処理

大正12年9月7日、各区長に掃除に関する通達を出し市職員を派遣しました。丸の内近辺の掃除を行い、各区についても馬車や臨時作業員を雇い15~16日には完全ではないが全市のゴミ収集を終えました。
次に取組んだのは道路清掃でした。路面には瓦礫が放置され、そのうえ震災直後はゴミの道路への投棄が黙認されていたため一部の市民はこれを習慣とし、道路は不潔をきわめ、通行にも支障が出ていました。
市はゴミの路上投棄を減らすためガソリンの空き缶や四斗樽を利用し、一日数百個のゴミ箱をバラックの多い場所や露天地帯に設置しました。
こうしてゴミの収集態勢は整ってきたが運搬・処理については、まだ停止状態にありました。上記の表の通りゴミを運ぶ伝馬船にかなりの被害があり、また市内各所の塵芥取扱場で桟橋が焼失するなど船積みの作業も困難になり、その上河川の交通自体も橋の落下や漂流物のため途絶していました。そこで応急処置として、警察署の了解を得て市内随所で臨時のゴミ焼却が行われました。震災後のゴミ処理がどうにか完了したのは10月下旬でした。

▶し尿の緊急処理

し尿処理も人員の不足に加え、用具にも被害が多く収集作業には困難をきわめました。近郊農家によるくみ取りも水陸の交通途絶と被災者の心の動揺により行われなくなり、避難民が多く流入した地域ではし尿があふれ出すこととなりました。市では早急に残った用具と鉄道輸送の用具を集めくみ取りを再開、このときは委託の有無に関わらず無料での実施となりました。またくみ取り業者以外にも隣接町村の青年団・在郷軍人会・農会に一荷につき35銭以内の料金を市が支払うことで応援を求め、15日頃にはようやく落ち着きをみせました。


清掃事業の歴史|各時代

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