戦後の復興
▶衛生問題
第二次世界大戦中、度重なる空襲によって東京は壊滅的な打撃を受けました。
都市は戦災で破壊され、上下水道施設の多くは損傷、食料や医薬品は極度に不足し、衛生状態は最悪でした。
連合国軍最高司令官総指令部(GHQ)は日本政府に対して、全公共水道・下水道・その他の公衆設備を最大限供給可能にすること、病院施設の業務再開、予防接種、害虫駆除に関する対策の実施を指示しかし日本の薬品生産能力の50%は壊滅状態にあり材料・燃料・労働力の不足により衛生関連用品の生産は困難をきわめました。
このためGHQは旧日本軍の医療物資の分配許可と米軍物資による補充をし、流行病拡大を阻止するため海外からの引揚げ者に対する検疫も行いました。
▶人口増加
戦後、東京の人口は戦前と比較して3分の1に減少していましたが疎開者・学徒動員や勤労動員の解除者・復員者らの引揚げによって、昭和20年8月から12 月にかけて78万人も増加、住宅不足と食糧難のなかで人々は、不自由な生活を強いられていました。防空壕や地下通路・河川敷・公園に立ち並ぶバラック等で雨露をしのぎ、かろうじて焼け残った家には数世帯の家族が襖1枚へだてて暮らしてる者もありました。
▶進駐軍の廃品処理
昭和22年、GHQは進駐軍関係の建物及び宿舎から排出される廃品類を日本政府の責任で処理するよう指令を出す、これを受け政府は都道府県知事を代表者とし、責任を負わせることとしました。
昭和23年、東京都連合軍汚物処理委員会を設置、目的は連合軍施設より排出される汚物の処理に関する事項の審議でした。廃品処理の経費にはこの業務から生じる収益をあてていました。
昭和27年、日本政府の責任は解除。以後、廃品処理は進駐軍と請負業者との間で直接行われました。
▶分別収集の再開
昭和21年、当時のゴミ処理は路上・空地にたい積した雑芥の処分が中心でした。
都は作業班を編成、作業員10人、掃除監視1人、自動車1台を各班事に配置。各戸収集は繁華街に限られ、養豚飼料用の厨芥の分別収集を除き、混合収集が行われていました。
昭和22年、都は衛生都市再建のため、戦前と同じく分別収集を実施。厨芥は1日か2日に1回、雑芥は5日に1回の割合で収集。作業員が大八車を引き、「チリンチリン※写真」と鳴らす鈴を合図に各家庭から厨芥を収集、雑芥は一定の集積所を設け,都が処分を行ってました。
昭和24年、全戸数の70%で分別収集が行われるようになりました。
▶処理施設の復旧
都のゴミ焼却場は戦災により壊滅したが昭和23年再建に着手、昭和24年、蒲田塵芥焼却場が総工費約44万をかけて復旧、翌昭和25年、日暮里・大崎と続いて復旧。しかし、これらの焼却場は戦争によって使用不可となっていた施設を復旧したにすぎず、構造は旧式のままでした。
▶し尿処理
終戦から昭和21年にかけてのし尿は貴重な肥料で、各農業会を中心とした農民の争奪の的であった。
昭和21年、くみ取りを都の直営と農民の直接くみ取りに整理し、無料のくみ取りを開始しました。直接くみ取り分は、都が農村へ1石3円で売り、農民くみ取り分は都と農業会の契約で1石50銭の委託料を支払っていました。このころが農民くみ取りの全盛期でした。
昭和23年、化学肥料が増産され始めると、し尿の需要が下がり23年をピークに農民によるくみ取りは減少。
受け持ち区域を放棄する農民も増え、都はこれを直営に吸収しなければならなくまりました。また人口の増加により、し尿の排出量も急増し作業量が著しく増加、この現象は財政面に大きく影響し、農地還元の減少による歳入減と直営作業の拡大による処理経費の増大というかたちであらわれました。
この財政負担を緩和するため、都は昭和24年し尿くみ取りを無料から1樽につき10円の手数料を「汲取券※写真」と引換徴収しました。また手数料の徴収にあたり計画くみ取りの完全実施、委託料の支払い等の必要から東京・埼玉・神奈川・千葉の各農業協同組合連合会と農民くみ取り契約を結ぶことになりました。
財政事情から農民くみ取り区域の全てを都の直営とするのは難しく、また農民くみ取りのほうが安価であったため都は農民くみ取りをできるだけ継続する方針をとりました。しかし農家の需要が減少し、くみ取り放棄や返却が増加。農民くみ取りの委託料は昭和24年で1石あたり16円と3年で32倍に、その後も上昇しつづけるが農民くみ取りは減少の一途をたどりました。